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『ネートチカ・ネズワーノワ』(フョードル・ドストエフスキー)

[ 2012/09/03 ]


1849年発表。恐らく近代文学史上最初のGL小説と言っていいだろう。
この作品の執筆中、ドストエフスキーはシベリア送りにされたため、未完となっている。
今となってみれば、かなり画期的な作品だと思う。

貧乏な家庭に生まれ、早くに両親を亡くした少女ネートチカの成長を描いた作品で、話の骨格としては昔の少女マンガや少女小説の薄幸の少女主人公とたいして変わらない。
当初は『おしん』みたいな話になるのかな、と思いながら読んだし、あるいは以前読んだ佐々木丸美の『雪の断章』なんかも思い出したりした、のだが…。
全体の三分の一くらいの尺を割いて、主人公ネートチカとその友人カーチャの恋模様を描いている。
つまるところは幼女レズだ。
しかも、ロシア人は挨拶代わりに接吻する民族なので、ほとんど肉体関係に近いほどの熱烈な恋愛描写が為されている。
以下、本文より抜粋

カーチャはふたたび身を屈めて、かぞえきれぬほどわたしに接吻しました。何粒かの涙がわたしの頬に落ちました。カーチャは深く心を揺り動かされていました。
「本当にあんたが大好きだったのに、それでいて、そんなことはない、そんなことはないっていつも思っていたのよ! 好きだなんて言ってやらないって! それにしても、ずいぶん強情を張っていたものね! あたしは何を怖がっていたのかしら、どうしてあんたを恥ずかしがっていたのかしら! だって、ほら、あたしたちはいま、こんなに楽しい思いをしているでしょう!」
「カーチャ! とても苦しい!」歓喜に恍惚となってわたしは言いました。「胸が張り裂けそう!」
(水野忠夫 訳)

別に百合好きではない私なんかからみると、ややひいてしまうほどのラブラブっぷり。

アニメやラノベ界隈で「百合文化」が注目されるようになったのはここ10年か20年くらいのものだけれども、それ以前から一応、ヴァージニア・ウルフやら吉屋信子やら、松浦理英子やらがレズビアン文学とでも呼べるものを書いていたし、男性目線のエロティシズムを含んだものとしては谷崎潤一郎の『卍』なんて名作もある。
でも、それらの作品群が登場する100年も前にドストエフスキーが幼女レズを描いていた、というのは驚異に値するのではなかろうか。
男性の同性愛を描いた近代文学はいちいち挙げるのも馬鹿馬鹿しいくらい質量共に充実しているけれども、女性のそれを描いた作品で名作と呼べるものは本当に限られているし、充実した研究もない。
にも関わらず、おそらく世界で初めてホモ・セクシュアルを描いたメルヴィルの『白鯨』(1851)よりも早く、レズビアンを描いた文学が発表されていたわけだ。
同時期のフランス(ロシア貴族はフランス語が公用語化し、フランスかぶればかりだった)では男色罪なんてものがあって、後にオスカー・ワイルドが逮捕されていたりするものだけれども、女性の同性愛については社会的にどのような扱いだったんだろうか。
ドストエフスキーがこの作品を書くにあたってどのような意図で描写したのか、社会の反応はどのようなものだったか、知りたい。
あるいは、現在でこそ子供の恋愛(ネートチカははっきりと恋と言っている)に関して背徳的な匂いを感じてしまうけれども、ここでは単純に「お遊び」として捉えられていたのだろうか。

作品全体を通してみた時、恐らく幼女レズはメインテーマではないだろうし、解説によれば、ドストエフスキーの当初の目論見としては群像劇を書きたかったようなので、百合ものとして評価されるのはいかがなものか、とは思うのだけれども、今となってはもう、そのようにして評価するしかないのではなかろうか。

全集にしか収録されていないため、ドストエフスキーの作品中でもとりわけ知名度の低い作品ではあるが、この作品はドストエフスキーの数ある傑作群の中でも今の世の中でもっとも読まれるべき作品だと思う。
別に傑作だからというわけではなくて、これほど「百合」にはあはあ言っている人間が多い世の中ならば確実に需要があるし、これをきっかけにドストエフスキー文学を読もうという人も中には出てくるはずだ。
萌えイラストをつけた単行本で出せば絶対売れると思うのだけれども、どっかにそれくらい気の利いた編集者はいないもんかねえ。


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[ 2012/09/03 ] 古典・純文学 | TB(0) | CM(-)

『永遠の夫』(フョードル・ドストエフスキー)

[ 2007/12/31 ]

夫の座にしがみつくしか能のない田舎官吏と、彼の死んだ妻のかつての不倫相手との交流を描いた作品。

主人公の女性に対する不器用さはわりとドストエフスキーのどの作品にも共通して描かれているのだが、本作品の主人公はその中でも群を抜いているように思われた。
というよりもあまりにも自分というものを知らなさ過ぎるトルソースキーの性格描写が非常に印象的。
リアリティ云々というよりも、語り手である、うがった性格のヴァリチャーニノフの目を通して描かれるそのありように心を惹かれた。
『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』などの大作に見られる思想性はここでは微塵も感じられず、心理小説としてストーリーが進行する。

死んだ妻を巡って、現在進行形の恋愛を巡って、「夫」と「愛人」の間で交わされる言葉の応酬は、そのかみ合わなさと温度の落差によって絶妙な効果を生み出している。


しかしまあ、『白痴』にしろ『地下室の手記』にしろ、あるいは『罪と罰』にしろ『白夜』にしろ、『賭博者』にしろ『貧しき人々』にしろ、彼の作品にはかっこわるい人間が実に多く登場する。
けれどもそういった人間達をどんなに偏執狂的に細かく描いても、ドストエフスキーが彼ら「かっこ悪い人間」達を見つめる目には優しさが感じられる。
凡百の私小説作家達の描く「かっこ悪さ」がその「かっこ悪さ」の中に美学のようなものを見つけようと情けない努力をしているだけなのと異なり、ドストエフスキーの描く「かっこ悪さ」には、そういったものを引き受けつつも、決して卑屈さに陥らない普遍的な強さが感じられる。
この強さと優しさが彼の真骨頂なのだろう。


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[ 2007/12/31 ] 古典・純文学 | TB(0) | CM(-)

『後白河院』(井上靖)

[ 2007/12/20 ]


井上靖の文章はおそらく中学か高校の頃に国語の教科書で読んで以来なのだが、後年出版された『孔子』の出来があまりにもひどいと評判で、読むことはないのだろうな、と思っていたのだが、何の因果か読まなきゃならない羽目になってしまった。
読んでみたら意外に面白かった。

この作品は古代の貴族社会、天皇中心社会から武士の時代への転換期に最高権力者だった後白河法皇を、彼の周囲にいた人々の目を通して描いたもので、時代を集約した一個人の記録としては大変興味深いものだった。
保元、平治の乱から源平の戦い、鎌倉幕府成立までの激動期を宮廷中心に描いている。

天皇制というものを考えるとき、2600年(自称)の歴史の中でその時々の性格は異なるものだが、彼の権威が失墜してから明治維新まで七百年ものあいだ、日本史において天皇が中心になることはなかった。
すぐあとの後鳥羽上皇や南北朝の後醍醐天皇などの例外はあるものの、基本的には天皇は忘れられた存在だった。
しかし、700年も後になって復活することができるだけの力の淵源はどこにあったのだろうか。
そういう問題意識を喚起する作品だった。

井上靖の硬質で格調の整った文章や、後白河法皇の人間的魅力にも魅了されたが、全体としては天皇制という制度に常につきまとう不鮮明さがこの作品にも投影されていて、それがこの作品の魅力を高めているように思う。


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[ 2007/12/20 ] 古典・純文学 | TB(0) | CM(-)
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