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物語の進化論

[ 2006/06/15 ]
文学には文学の、マンガにはマンガの、映画には映画の固有の評論、学問領域があるのだが、それら「物語」を総括して語る言説というのはそれほど多く無い。
学問としての物語論(ナラトロジー)というのは主に文学批評とセットで語られてきた歴史的経緯があり、多分に現代思想の基礎知識なしには理解することが難しい内容だった。(ロシア・フォルマリズムとか現象学とか、構造主義とか、記号論とか、受容理論とか)
また、主に表現技法やストーリーの類型分析に終始しているばかりで、現実との対比で物語のありかたの変遷を考察した例はないし、文字情報だけで構成された物語のみを対象にしている傾向が強かった。
この記事でいささかなりとも現実との対比と、文字情報以外の情報でも構成された広義の物語の「進化」ということを考察していく。


古典文学、古典物語を読むことの意味と、最近の物語を読むことの意味はいささか異なる。
それは一般的に古典が読みづらいことを考えてみれば明白なことだ。
かつて村上春樹『ノルウェイの森』で主人公の友人である「永沢さん」が

「没後三十年以上たった作家の作品以外、読む必要はない。今の作家のすべてがくだらないということはないが、歴史の試練に耐えていない作品に時間を割くには人生は短い」

そういう趣旨の発言をしていた。
これは一面の真実を穿った理屈であるが、一面でしかない。
たしかに古典作品の多くは歴史の荒波にもまれながらもその評価を落とすことなく、その輝きを現在まで伝えている宝石のようなものであるし、そのいずれもが普遍的なテーマを扱っている。
しかし、人間は変わるし、社会は変わる。
変わらないものの価値は今の物語にもきちんと生きている。
ゲーテ、ドストエフスキー、シェイクスピア、魯迅、バルザックや紫式部、夏目漱石、滝沢馬琴らがその作品の中で提示したテーマは現在の物語の中にもきちんと息づいている。

古典作品を理解しようとするとき、我々は壁にぶつかる。
何故なら、その古典作品を書いた作家とは、我々は生きている時代も、住んでいる地域も、着ている服も、食べているものも、吸っている空気も、享受している娯楽も隔たりがありすぎるからだ。
同じ時代に住んでいる人々と同じように作品を理解することなど絶対に不可能なことなのだ。
同時代に生きる作家の物語が理解しやすいのは必然的なことであり、かつて古典作品で示されたテーマが進化した形で提示されていることを踏まえれば、評価の高い最近の物語を読むことは、理解にいささかの困難を要する古典作品を読むよりも効率がいい、といえる。


一方で、古典を読むことの意義にはオリジナルの強みに触れられる点が挙げられる。
ある本で得た感動が、実は別の本からのパクリであったことがわかったときの落胆はわりと大きい。
大抵の人は模造品よりもオリジナルを有難がる傾向が強いものだ。
また、過去の人々との一体感を得られる点も大きい。
人間は、同時代に生きている人と横のつながりがあるように、過去に生きてきた人達とも縦のつながりがある。
作中に描かれた人々の暮らしぶりを知るのも悪くはない。
疲れる作業ではあるが。
人が物語に求めるのは娯楽であったり、慰みであったり、教養であったり、感動であったりといろいろだろうが、古典作品においても、そういうことを得ることはできるものの、隔たりがある為、時間や手間をかける割に、得るところが少なかったりする。
また、今日的問題、それもローカルな問題意識を扱っているのはやはり現代の作品でしか味わえないものがいくらでもある。


今日的な物語と旧来の物語を隔絶するものはなにか。
それはもちろん様々なものが存在するけれども、物語の構造そのものを根底から覆すような契機は以下の二点に集約される。


女性の台頭と、心理学の発見、拡大


文字の発明、活版印刷の普及、産業革命、近代国家の成立、高度資本主義、冷戦構造の変遷、情報化社会、テレビや携帯電話、ネットの普及…。変数をいくらでもそこに加えることはできるけれど、少なくとも、物語の構造には上記2点以上のインパクトを明示的な形で与えることはできていない。


女性の台頭について


『ファウスト』や『ハムレット』や『神曲』や『ドンキホーテ』や「竹取物語』に、今日的な女性像の萌芽を見ることはできない。
女性のそれに対応した形での男性の意識や社会的役割には実のところたいした変化はないけれど、女性の意識、社会的役割の変遷、すなわち人間社会の縮図である物語世界における立場の変遷は著しいものがある。
世界最古の物語ともいわれる『ギルガメシュ叙事詩』には女性が出てこない。

日本の例で考えてみる。
昔から一貫して、女性の役割には男性を魅了する色気を求められてきたのだが、その存在のありようは1980年代まで基本的には男性に対して一歩下がったスタンスだった。
有名な作品を例に挙げて考えてみよう。
70年代以前は『あしたのジョー』や『巨人の星』に顕著だが、じっと耐えて内助の功のようなものを求められいた。
『宇宙戦艦ヤマト』でもユキは快活だけれど、前線には出てこなかった。
80年代になると戦うヒロインも出てくる。
『Zガンダム』とか『キャッツアイ』とか『ダーティーペア』とか。
でもそれは男性の視線を意識したもので、男性の恋愛事情、欲望事情との絡みでのキャラクターであった。(例外はもちろんある。Zガンダムで言えばハマーン。彼女は主体的な動機を持ったキャラクターとして物語を引っ張っていた)
90年代になると、重層的な心理描写を織り込んだ上で前線に出てくるようになって、『エヴァンゲリオン』とか、『スレイヤーズ』とか、各種RPGゲームとかで、主体的に戦う女性が描かれている。
00年代になると『最終兵器彼女』で圧倒的に強く、「彼氏」を守る「彼女」が登場した。
共闘者でもなく、お色気担当でもなく、純粋な戦闘者としての女性がクローズアップされるようになった。
以後も『イリヤの空 UFOの夏』とか『ほしのこえ』とか、『クレイモア』とか、後方に下がり続ける男性に対して、前面に出てくる女性の物語が増殖し続けている。
ハリウッド映画では女性の台頭といえば『エイリアン』が'79年に登場するのだが、以降、『ターミネーター』、『G・Iジェーン』、『チャーリーズ・エンジェル』、『トゥームレイダー』などなど、女性が意思をもって戦う作品がつくられていく。
ただ、今まで日本の作品の例を見てもそうだったように、基本的には、日常とはずれた世界を舞台にした作品において、女性の活躍が華々しい。
現代の現実を描いた作品、特にテレビドラマなどでは女性の立ち位置は(広義の)SF作品ほど変化していないのだが、それでも、現実世界での女性の社会進出に合わせるようにして、女性が演じる役割のスタンスは広がっているように見える。


心理学について


近代以降の物語では心理描写が作品において非常に重要な要素を占めている。
一人称の作品はもとより、三人称の作品であろうと、視覚を伴った作品であろうと。
人々は物語の登場人物が経験する様々な心の機微に、自らの心を仮託して、日常の異化作用を享受する。

現存する日本の作家で最高の実力を持つ、と言われる村上春樹の小説の多くに心理学のメタファーが多用されていることは有名で、ユング的な解釈による行動原理がよく描写されている。
一方で、『24人のビリー・ミリガン』、FBI心理分析官などのプロファイリングの広範な流行によって、従来の心理描写に学術的なアプローチが加えられるようになった。
「境界例」「人格障害」「分裂症」「PTSD」「性同一性障害」などの心理学用語が心の襞を説明する用語として知られるようになっている。

これは物語に奥行きと説得力を持たせると同時に、物語が本来持っていた根源的な力を殺ぐ効果ももたらした。
ドストエフスキーの小説の多くの主人公を「強迫神経症」、筒井康隆の小説を「境界例」的、太宰治の小説を「自意識肥大」と言ってみることで、たしかに何かを説明できてしまう気になるのだ。

物語が本来担っていた役割のいくつかの部分を、心理学や精神医学が徐々に肩代わりしつつある。
「ウェルテル効果」、「ピグマリオン効果」、「ロリータ・コンプレックス」、「エディプス・コンプレックス」など物語のエピソードに由来する用語が多いのも心理学の特徴であるから、もともと親和的な要素が強かったのかもしれない。
香山リカ、斉藤環などの精神科医がしばしばサブカル批評を行うのに、アトム、ガンダム、パトレイバーなどに影響を受けたはずの技術者、科学者がそれを行っている例があまりないのも特筆すべきか。
それはともかく、心の研究が物語の変質に大きな作用をもたらしているのは間違いがないと思われるのだ。

具体的な用語が作品中に使用されているかどうかはともかくとして、心理学がもたらした効果はあらゆる物語に存在する。
我々はそういったパラダイムの中に生きている。

つまり、心理学が問題とする自意識の分析やその変化や成長、あり方をより斬新に描くこと、それまでになかった女性像をうまく屹立させること、のいずれか、もしくはその双方を両立させた作家が物語の最前線をひっぱっている、という構図が見えてくる。




映像メディアの登場と共に、文学が物語の主役である時代は終わった。
文芸誌の発行部数など、1万部に満たないし、ボルヘ・ルイス・ボルヘス、ガルシア・マルケス、高橋源一郎、阿部和重などが挑んだ前衛文学が「後衛」文学に明確な影響を及ぼすこともなかった。
需要が細分化され、ジャンルだけが増えた。


今、物語の最前線はいったいどこにあるのだろうか。

最前線の定義というのも難しいけれど、ここで私が念頭においているのは、それを受容する人たちへの影響力の内実ということだ。
たとえば『サザエさん』は30年以上、TVアニメが放映されているし、その影響力がない、ということは言えないけれども、その『サザエさん』から果たしてこの30年、何か新しい社会現象、文化的後継者が現れたか、というとなかった。

かつては文学が実際に世の中に一定の影響を与えていた。
『アンクルトムの小屋』で奴隷解放が進んだり、『東方見聞録』(あれは嘘っぱちだらけなのでルポタージュではない)で大航海時代の幕を開けたり、「若きウェルテルの悩み」で自殺者が急増したり、トルストイの思想、文学からガンジーの非暴力運動が発生したりといったことだ。
ところが、そういう社会現象を現代に起こしているのは主にマンガで、『ヒカルの碁』で囲碁が、『スラムダンク』でバスケが、『ゴーマニズム宣言』でナショナリズムが流行ったりしている。

文化的後継者というのは、たとえばダンテ『神曲』の影響からゲーテの『ファウスト』が生まれたり、ドストエフスキーや夏目漱石、シェイクスピアが多くの作家に参照されたり、ということだが、近年は「春樹チルドレン」と呼ばれる村上春樹のフォロワーが登場しているのが目立つ動きだったりするけれども、今日、たとえばノーベル文学賞の受賞者の作品がいったいその国以外の読者にどれだけ読まれているのか、というとかなり微妙な数字にしかならないはずだ。
文学には文学の最前線があるのだろうけれども、「物語全体」の最前線たる地位はすでに放棄してしまっている、と考えていいと思う。


アニメ、映画は製作に金がかかりすぎ、冒険がしにくい為、自然と二次創作物が多くなる傾向がある。
もちろん、その中にだって特筆すべきものはあるし、固有に語られなければならない現象は多々あるが、個々の作品で終始してしまっており、それが「前線」なり、グループなりを構築するまではいかない。
なにか、文化的、社会的ヒット(商業的ヒットはよく生まれているが)が出たとしても、わりと単発のものだったりする。
京都アニメーションやシャフト(いずれもアニメの制作会社)のように独自のセンスがイノベーション的に評価されることはたしかにあるけれども、それは原作ありきであったりするし、物語の「演出」や「構成」に関して独自のセンスが振るわれたとしても、モチーフそのものが変わるわけではない。
ただ、海外、特にアメリカにおいてはあらゆる文化的事象や文化的才能が映画に集中している、という背景があるのでこの限りではない。


マンガは最前線といってもいいだろう。
海外でもよく読まれている。
爛熟期にあると言ってよく、『バクマン』『ジョジョ』『ナナ』、冨樫義博の作品あたりはそれなりに先鋭的で後の作家に与える影響力も、読者に対する訴求力もあると思う。
しかし、『ONE PIECE』をはじめとするジャンプマンガのヒット作品の多くは子供たちの生活に大きな影響を与え続けているけれども、類型を脱して新しい表現、モチーフでもってそれを提供しているか、という点において、疑問がある。
また、マンガは製作体制と方法論が高度に完成、あるいは(編集者に)管理されている為、幅のわりには……という印象も拭い得ない。
マンガ表現においては大友克洋以降、大きな変革は起きていない、というのがマンガ評論家たちの間でも共通の認識になっている。
特に大手マンガ誌のマンガは商業的制約(というより編集者の見識が冒険を拒むようになっているのが問題か)で、類型、パターンを大きく脱して描くのが難しくなっている。
青年誌は軒並み発行部数を減らし、「スピリッツ」はエロマンガ誌の「快楽天」に発行部数で抜かれる有様にまで落ちている。


各ジャンルにおける物語の文法はほぼ完成しており、ジャンル内の表現論がどれだけ高まろうと、それが現実との対峙において、受容者の意識や文化に変革をもたらす状況ではなくなってしまったのだが、マンガ以外で言えば、ライトノベルとゲームにはそれでも新しい芽を見つける機会がまだある。
10代から20代の若者の支持を得ているし、加えて勃興して間もないジャンルということも大きい。
新しいジャンルには新しい才能を持った人間が集まりやすい。


ライトノベルの場合、創作としての敷居がマンガやアニメ、ゲーム、映画に比べて低いため、単純に創作者、創作志望者のパイが多い、ということがある。
文学、大衆小説の志望者も多いのだろうけれども、「アニメ絵の女の子」が表紙になっていない物語を習慣的に買う人が減っているため、才能が育ちにくい。
近年話題になり、いくつもヒットを飛ばした「一般の」小説家といえば、伊坂幸太郎くらいしか出てこない。
宮部みゆきや京極夏彦、浅田次郎、東野圭吾、村上春樹、村上龍らはもう20世紀から活躍している。

ライトノベルと一般小説を分けるものは何か、という定義は実のところ定まったものはないのだけれども、ただ、アニメ絵が表紙になっていること、オタク的想像力(作品内で言及、参照されるモチーフ)に依拠した作品であること、というのは大きい。
ラノベレーベルからのヒット作品ももちろん多いのだが、それ以上に、ネット小説の展開ということに注目したい。
『電車男』や『オナニーマスター黒沢』、『「魔王「この我のものとなれ」勇者「断る!」』、『ブラック会社に務めているんだがもう俺は限界かもしれない』などは従来の文学や一般小説とは異なる出自で出版され、出版自体がニュースになったものだが、いずれもライトノベル的な枠組みの中で企画、受容されている。
また、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』もアニメ絵の女の子を表紙にしてヒットを飛ばした。
近年、太宰治の『人間失格』がマンガ家小畑健の表紙絵で再ヒットを飛ばしたのも、ライトノベルの方法論の応用と言っていいだろう。
ライトノベルの方法論が物語のあり方、広がり方に大きな影響を与えている。

ゲームで語られる物語、というのは、いずれもそのゲーム自体のシステムに依存するので、十把一絡げに論じることは難しいのだけれど、ここで話題にしたいのはノベルゲームというジャンルについてだ。
以前は『ファイナルファンタジー』や『ドラゴンクエスト』など、RPGのストーリー性がよく取りざたされたものだけれども、ほとんどのRPGの場合、基本的には「敵を倒すこと」が主目的であるため、その見せ方がどのように巧緻になろうと、途中でいろいろとドラマを織り込んでみようと、物語の幅そのものは狭いものにならざるを得なかった。
ところがノベルゲームの場合、敵を倒さなくても成立するドラマが描かれる。
そして、その情報の扱いがこれまでの表現媒体と異なるのだ。
紙媒体の小説と遜色ない内容、量の文字情報と常にリンクして、絵やBGM、演出が変わっていく。
マンガなら絵と文字情報だけ。
小説なら文字情報だけ。
映画やアニメなら動画と音楽と文字情報もあるだろうが、再生時間の制約がある。
大量の文字情報を扱わないと表現できない心理描写、情景描写を織り込むのはかなり難しい。
ゲームにはゲームでしか味わえない物語体験があるのだ。
ただ、歴史が浅く、テクノロジーに依拠した媒体であるため、アカデミックな場所において、あるいはゲームに触れない人たちの間で、文学や映画、マンガと同じように語られるということがない。
また、常に社会的な批判誹謗にさらされており、名作傑作と呼ばれるものの中には成人指定の作品も多いことから購入、プレイ、広言することにハードルを要する、ということもある。


そういったオタクに受けるサブカルチャーから、より広範囲な人々に視聴されるような映画やドラマに物語のエッセンスがフィードバックする現象が、これから先見られるようになるかもしれない。
すでに、マンガを模倣する文学(鷺沢萠「川べりの道」が吉田秋生「河よりも長くゆるやかに」を模倣したり、高橋源一郎「ペンギン村に陽は落ちて」は「Drスランプへ」へのオマージュだったり」)やアニメのノベライズ(「機動戦士ガンダム」を福井晴敏が続編執筆)を著名な作家が書いたり、という現象はある。
ゲームやライトノベルがより社会的文化的地位をあげ、アカデミックな場所で、巷間で語られるようになれば、今よりも先の地平を臨む物語が生まれるようになるのではないだろうか。

                                                                  2011年5月改稿


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[ 2006/06/15 ] 考察 | TB(0) | CM(-)

田渕由美子「大阪マウンテンブルース」

[ 2006/06/14 ]
ちょっと前なら「20世紀少年」「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!大人帝国の逆襲」、最近だと「Always 三丁目の夕日」など、ここのところ、1970年前後の時代にスポットを当てた作品がよく目に付く。
団塊の世代から遅れてきた人たち(からオタク第一世代とか新人類世代)の懐古的な嗜好に日の目があたってきたのだろう。
昔はいつもいつでもいい時代……。

この作品もそうで、高度経済成長末期の熱気にあたられた時代の高校生たちの青春群像マンガ。
セピア色の風景の中で交錯する恋と友情の連作短編集。
甘酸っぱい雰囲気がとても濃厚で、淡くはかない叙情が漂っている。

昔読んだ、夢枕獏が編集した「少女マンガ館」に、絵柄こそ少々野暮ったいものの、この作品と共通する匂いの作品が何篇か収録されていて、さわやかな読後感を抱いたのを思い出す。
この種の感受性が21世紀にも有効であることを再認識した。

とかく細分化し、多様化した恋愛と性描写の直接的描写が一般化した少女マンガにあって、こういうマンガが健在であり、尚需要がある事実が嬉しかった。


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[ 2006/06/14 ] マンガ | TB(0) | CM(-)

チアン・ウェン「鬼が来た」

[ 2006/06/13 ]

中国映画。
日中戦争における日本軍と現地住民の交流を描いた作品で、思想的偏りの少ない製作姿勢に驚いた。
戦争ドラマというより人間ドラマであり、その一級品。

誤解に基づく和解と誤解に基づく対立がときにユーモラスに、ときにシリアスに描かれ、異言語間コミュニケーションの成立しがたさを巧妙に描いている。
このユーモアとシリアスの奇妙な混在は五カ国合作の戦争映画「ノー・マンズ・ランド」とも共通する視線。

和やかな場面から狂気を感じさせる瞬間への切り替えが見事で、ブラックユーモアを笑うことに対する踏み絵的な効果さえもたらしてくれた。
この奇妙な居心地の悪さこそがこの映画の真骨頂であるように思う。

ただ、カメラワークに難があった。
意図的なものかもしれないが、ブレの多いシーンが多くて、何をやっているのか判別のつきづらいシーンがいくつかあった。
特にクライマックスでああいうことやっちゃだめだろう。
志が高く、脚本やキャストの演技がよかっただけに、それだけが残念。
そこをのぞけば、まず名作といって間違いない作品。


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[ 2006/06/13 ] 映画 | TB(0) | CM(-)
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