2008年11月 : 異常な日々の異常な雑記 QLOOKアクセス解析 アクセスランキング

ロックとオタクと思想と政経と社会について思いつきを垂れ流すブログ
お気に入りサイトの最新記事

スポンサーサイト

[ --/--/-- ]
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


↓よければアクセス&モチベーションアップ&話題の拡散に繋がるクリックを↓
ブログランキング・にほんブログ村へ このエントリーをはてなブックマークに追加follow us in feedly


[ --/--/-- ] スポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

『家族計画』(ディーオー)

[ 2008/11/10 ]

田中ロミオがかつて山田一名義で書いた作品。

ロミオ名義の『CROSS†CANNEL』や『最果てのイマ』はSFタッチの作品だったけど、この作品は現実の物理法則とそれほど乖離しない世界を舞台にした作品だった。
問題を抱えた7人の男女が緊急避難的に擬似家族をつくり、それぞれの問題に共闘して対処する、という設定で、その擬似家族内で営まれる生活や織り成される人間関係を描いた作品。
エロゲーであるから性描写はもちろんあるが、涙を誘う描写も多々織り込まれていて、泣きゲーの傑作としての評価も非常に高いらしい。
フォーマットとしてはやはりエロゲーで、問題を抱えているヒロイン達を主人公が救ってやる、という王道の構造から逸脱したものではない。

先行してプレイした二作品の核にあるのはいずれも「人は孤独である」ということの意味だったけれども、この作品では逆に「孤独ではないこと」の意味を描いたものだった。
発表年代順で言えば、こちらのほうが先であるから、田中ロミオの思想は「孤独である」と言う方向にシフトしたのかもしれない。
孤独か孤独でないか、なんて結局は状況次第のものであるから、別に普遍的に人間が孤独であるとも思わないし、孤独でないとも思わない。
ただ、「孤独」というのは個人の形を明確に浮かび上がらせる、と思わせる効果があって、ドラマにしやすく、感動を喚起するものがある。
『CROSS†CHANNEL』や『最果てのイマ』でも非常によくできていた「仲良し空間(というよりクローズドサークル内の人間関係)」の描写は健在で、それが、作中でうまくいっている時の楽しさと暗礁に乗り上げた時の寂寥感は、「孤独」の意味を考えさせる役割を存分に発揮していた。

で、孤独はもちろん、タイトル通り、家族の意味を描いた作品でもあるわけだが、その方向では社会学用語で言うところの定位家族と生殖家族、という問題はわりと無視しており、家族の意味、というよりはずばり「擬似家族」の意味という矮小化された場所への着地しかできなかったように思う。
その意味では『CLANNAD』なんかのほうがよくできているんだろうけど、作品自体の持っている強度としてはこちらも十分に強く、何がしかのインパクトは与えられた。


↓よければアクセス&モチベーションアップ&話題の拡散に繋がるクリックを↓
ブログランキング・にほんブログ村へ このエントリーをはてなブックマークに追加follow us in feedly

関連記事
スポンサーサイト

[ 2008/11/10 ] ゲーム | TB(0) | CM(-)

『コードギアス 反逆のルルーシュ』『R2』(谷口悟朗)

[ 2008/11/07 ]



大枠としては魅力的な物語であり、贅沢なつくりで、非常に楽しませてもらうことができた。
演出や構成、設定、キャラクターなど、偏ったものではあるけれど、高度に洗練されていた。
この作品の、適度に高度で複雑な世界設定とメカ設定、少女マンガばりに異常に濃い人間関係、サービス精神豊富な演出、倫理観を超えていこうとする製作姿勢、主人公の性格設定と立ち位置の歪さ(『デスノート』の影響だろうけど)は素晴らしい。
『コードギアス』に限らず、『ガンダム』にしろ、『エヴァンゲリオン』にしろ、『マクロス』にしろ、『パトレイバー』にしろ、何故にロボットアニメには、これだけアイデアが蕩尽されるのだろうか。
おもちゃを売りやすい、という実も蓋もない理由が一番でかいのは間違いないんだけど、そういう商品展開の多様さを支えているのは設定の精緻さで、それを支えている核はじゃあ何か、というと兵器や闘争へのフェチズムだったりする。
実は日本人の根底には「戦争によって象徴される様々な意匠に対する渇仰」が広範に眠っているのだろうな、ということも考えられるなあ。


それはともかく以下、ネタバレ













主人公の死について。
まあ、おそらく見ていた人の大半が主人公ルルーシュは最後に死ぬのだろうな、と思っていたのだろうし、そういう意味では、想像の斜め上を行くようなどんでん返しの連続だったこの作品にしては至極まっとうな終わり方だったように思う。
物語のルーチンから、あるいは倫理観から外れない終わり方だった。
自らの思想、目的のために散々、無辜の人々を殺してきて、そのことに自覚的なキャラクターが死なずに、あるいは狂気に逃げずに終われた作品で人々の納得を得られた作品と言うのはそれほど多くないと思う。
「物語のルーチン」を考えなければ、最終回でルルーシュが死ぬ必要はない。
彼の最終的な目的が「人々の話し合いによる世界平和」であり、その手段が「暴君ルルーシュの支配とその死」であるならば、死んだことにする、という手だってありえたはずだし、そうでなくても、その圧倒的な力をうまく駆使して、名君になる道だってないこともなかった。
現実世界の倫理観と相容れないかもしれないけれど、だからといって、現実世界の政治が倫理観と相容れた形で進行しているのかといえばそういうことはなかったりする。
にもかかわらずこうした形で決着したということは、大衆的で陳腐な倫理観に迎合したからだろう。

倫理観をはみ出した作品と言うのはいくつかあるのだけれど、それらはわりと無自覚な踏み出しであり、現実社会の倫理観の推移と裏表だったりする。
夏目漱石の作品のどれだったか忘れてしまったが、平気で電車の窓からタバコの吸殻を捨てるシーンがあったけど、漱石の時代には電車でタバコを吸うことも、それを窓からポイ捨てすることも特に問題とはされなかった。
あるいは、『涼宮ハルヒの憂鬱』ではヒロインのハルヒが隣の部を脅迫してパソコンを強奪する、というシーンが罪悪感を匂わせることなく描写されていた。

この作品では自覚的に「悪」を行う主人公、ということでその倫理観の取り扱いに注目していたわけだが、わりとそこらへんの問題はごくごくまっとうな解決手段で、構造としては『ドラえもん』や『こち亀』なんかと変わらなくて、倫理観の内実を問うようなものではなかった。
まあ、そんなことに注目していた人間なんて私くらいのものかもしれないのだけれど、「物語の限界」ということを考えるきっかけはあたえてくれたので、個人的には興味深かった。
個人的な娯楽対象としてはその限界を突破してくれなければ、「至高体験だったなあ」という感想は出てこないけど、なんにせよ、限界付近を探ったと言うことで、やはり21世紀のアニメでは今の所一番、面白かったと思う。


↓よければアクセス&モチベーションアップ&話題の拡散に繋がるクリックを↓
ブログランキング・にほんブログ村へ このエントリーをはてなブックマークに追加follow us in feedly

関連記事

[ 2008/11/07 ] アニメ | TB(0) | CM(-)
告知

他アカウント等
・昔書いた小説
・Twitterアカウント
・はてなブックマーク

相互RSS募集中
何かあればこちらまで sencha.freak69■gmail.com
煎茶

ブログのコメント欄は閉鎖しました。コメントははてなブックマークかツイッター、もしくはメールで直接管理人までお願いします。

忍者AdMax


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。