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政治の役割と幸福の確認

[ 2012/10/06 ]
出生率はバブル期にも延々と下がり続けていたし、今はやや回復基調にあるから、一概に国民の幸福の指標になるのか、というと微妙なところではあるのだが、型にはめられる側の国民の幸福を測る要素として「一般的に」非常に重要な位置を占めると思う。
また、自殺率の増加はほとんど決定的といっていいくらい、政治の無策、国家の不作為を追求するに十分な要素といえるだろう。


戦後、一貫して志向されてきた価値相対主義、価値観の多様化の流れの中でつい忘れてしまいがちだけれども、やはり大抵の人間にとっての幸福とは、学校で学び、友人をつくり、仕事を得て自立し、パートナーを見つけて家庭を築き、子供を育て、やがて子供を自立させ、友人と過ごしたり趣味に興じたりという余暇を持ち、健康を維持しながら年齢に応じた人生の楽しみをその時々で見つけていき、子どもや孫に囲まれながら老後を過ごしていく、というのがオーソドックスなモデルだと思う。

別にそんな型にはまらなくても、幸せなんていくらでもあるし、仕事だけして生きていくのも、ニートしながら生きていくの、放浪しながら生きていくのもいい。
流行歌なり映画なり小説なりマンガなりアニメなりで、いろんな幸福の形が描かれているので、その中から好きな幸福の形に自身を当てはめるのもよいし、中二病をこじらせるのもいいかもしれない。
そうしたフィクションに耽溺するのも大いなる幸せである、という立場もあるのだが、それらはわりと少数派の考えであるし、またそういう生き方の人間が増えていくと社会は維持できなくなっていく。

そういうフィクションや少数派の中にあるべき幸福が現実社会を侵食することに関して、無自覚であってはならないのではないか、ということを少し考えてみた。

評論家の福田恆存はかつて、聖書のルカによる福音書のエピソード「なんぢらのうちたれか、百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたづねざらんや」をひいて、この九十九匹を管理するのが政治の役割であり、一匹のために存在することが文学の役割である、と解釈し、文学者のあるべき姿を説いた。
九十九匹からはぐれてしまった一匹を救うのが文学の役割である、と。
以下、引用

 ぼくはぼく自身の内部において政治と文学とを截然と区別するやうにつとめてきた。その十年あまりのあひだ、かうしたぼくの心をつねに領してゐたひとつのことばがある。「なんぢらのうちたれか、百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたづねざらんや。」(ルカ伝第十五章)はじめてこのイエスのことばにぶつかつたとき、ぼくはその比喩の意味を正当に解釈しえずして、しかもその深さを直観した。もちろん正統派の解釈は蕩児の帰宅と同様に、一度も罪を犯したことのないものよりも罪を犯してふたたび神のもとにもどつてきたものに、より大きな愛情をもつて対するクリスト者の態度を説いたものとしてゐる。たしかにルカ伝第十五章はなほそのあとにかう綴つてゐる――「つひに見いださば、喜びてこれをのが肩にかけ、家に帰りてその友と隣人とを呼びあつめていはん、『われとともに喜べ、失せたるわが羊を見いだせり』われなんぢらに告ぐ、かくのごとく、悔い改むるひとりの罪人のためには、悔い改めの必要なき九十九人の正しきものにもまさりて天に喜びあるべし。」
 が、天の存在を信ずることのできぬぼくはこの比喩をぼくなりに現代ふうに解釈してゐたのである。このことばこそ政治と文学との差異をおそらく人類最初に看取した精神のそれであると、ぼくはさうおもひこんでしまつたのだ。かれは政治の意図が「九十九人の正しきもの」のうへにあることを知つてゐたのにさうゐない。かれはそこに政治の力を信ずるとともにその限界をも見てゐた。なぜならかれの眼は執拗に「ひとりの罪人」のうへに注がれてゐたからにほかならぬ。九十九匹を救へても、残りの一匹においてその無力を暴露するならば、政治とはいつたいなにものであるか――イエスはさう反問してゐる。かれの比喩をとほして、ぼくはぼく自身のおもひのどこにあるか、やうやくにしてその所在をたしかめえたのである。ぼくもまた「九十九匹を野におき、失せたるもの」にかかづらはざるをえない人間のひとりである。もし文学も――いや、文学にしてもなほ失せたる一匹を無視するとしたならば、その一匹はいつたいなにによつて救はれようか。
 善き政治はおのれの限界を意識して、失せたる一匹の救ひを文学に期待する。が、悪しき政治は文学を動員しておのれにつかへしめ、文学者にもまた一匹の無視を強要する。しかもこの犠牲は大多数と進歩との名のもとにおこなはれるのである。くりかへしていふが、ぼくは文学の名において政治の罪悪を摘発しようとするものではない。ぼくは政治の限界を承知のうへでその意図をみとめる。現実が政治を必要としてゐるのである。が、それはあくまで必要とする範囲内で必要としてゐるにすぎない。革命を意図する政治はそのかぎりにおいて正しい。また国民を戦争にかりやる政治も、ときにそのかぎりにおいて正しい。しかし善き政治であれ悪しき政治であれ、それが政治である以上、そこにはかならず失せたる一匹が残存する。文学者たるものはおのれ自身のうちにこの一匹の失意と疑惑と苦痛と迷ひとを体感してゐなければならない。


この小文は政治とは何か、文学とは何か、というごくごく普遍的な問いに卓抜な比喩で解答したものである、として、多くの文献で引用されている。
そしてその多くの場合、国家権力に弾圧されてきた文学(もっと広く言えばあらゆる表現)のレゾン・デートルとして機能してきたし、それは現在も有効だろうと思う。

ただ、世の中が実際の所、そういうふうにくっきりはっきりと峻別されているかというとそんなこともなく、国家が文学(表現)に規制や干渉を行なってきたのと同様に、文学(表現)もまた、国家に多大な影響を及ぼしてきた。
我々は時に映画やマンガや小説の登場人物に憧れ、かくありたいと念じ、実際に行動に移してしまったりする。

そうした文学なりドラマなり映画なりマンガなり流行歌なりで描かれた様々な幸福の形、多様な価値観の数々は、国家が本来の形を見失うほどに強いものではないのか。
文学に文学の役割があるように、政治には政治の役割があるのだが、その役割である九十九匹の幸せを蔑ろにしてはいないだろうか、多様な価値観の幸せを認めるあまり、九十九匹の幸せの追求を蔑ろにしている、ということはないだろうか、九十九匹からこぼれ落ちてしまった羊たちがあまりにも多くはないか。

国家自身は多様な価値観、多様な幸福など提示する必要はなく、その価値観、幸福モデルはひとつでいい。
すなわち、国民の幸福とは、学校で学び、友人をつくり、仕事を得て自立し、パートナーを見つけて家庭を築き、子供を育て、子供を自立させ、余暇に友人と過ごしたり趣味に興じたりという時間を持ち、健康を維持しながら年齢に応じた人生の楽しみをその時々で見つけていき、子どもや孫に囲まれながら老後を過ごしていくことだ、と。

政治の役割は多様な幸福の土台となる社会を整備していくことだ。
少子化も、自殺率の増加も、そうした土台となる幸福を築く意思を蔑ろにしてきた結果ではなかろうか。

別に文学(表現)のありようを責めているのではなく、むしろフィクションは大いにその存在領域を広めていってほしいと思うし、たくさんの夢を見せてほしいと思う。
だが、政治がむやみにそういったフィクションに迎合する必要はないし、あるいはそういったフィクションに由来した「多様な価値観」を建前にするのは責任放棄であるので、本来の役割である不変の幸福をいかに実現すべきであるか、という点に注力してくれよ、という話。
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