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日本人のあるべきモデル

[ 2013/05/26 ]
少し前の記事で、長時間労働の害悪の数々を列挙しましたが、もう少し、その内実について触れようかな、と。

仕事の中身にもよるけど、労働者でいる時間は、基本的には人間として本来持っている様々な欲求をある程度封じ込めながら過ごさなければなりません。
食事したり、排泄したり、睡眠とったり、という生理的な欲求を自由に満たすことができないのはもちろん、性行為(自慰行為を含む)をしたり、ダラダラしたり、好きな人と会ったり、娯楽に興じたりといった欲求も満たすことができないし、家事や育児もできない。
我々は労働者であるあいだ、人間として本来持っている様々な権利や義務までも抑制しなければならないわけです。
近代社会の人間が近代社会の人間として機能するには実に様々な行為を為さなければならないし、その様々な行為を人間がするということを前提に近代社会は運営されています。
働くことが美徳である、と言っても、働いているだけでは社会は維持できない。
労働(生産)に加えて、消費、生殖、育児が一定のスタビリティをもって、滞り無くサイクルする社会が健全な社会ということなのでしょう。
新自由主義的価値観だと、生殖、育児の部分が削ぎ落とされた議論ばかり先行しているように見えます。
経済活動の主体となる人間の頭数を確保し続けるにはどのような社会が望ましいのか、という議論がないがしろにされすぎていないか。
たとえ表層的な国民の価値観がどう変化しようと、どのような政党が政権を取ろうと、国民生活において、この生産、消費、生殖、育児のサイクルが崩れるような政策は愚の骨頂と言わざるを得ないでしょう。


個々人の人生において、仕事の占める割合がどれくらいであるべきか、というのはそれこそ「人それぞれ」で構わないとは思うんだけど、国家や社会がどこまでその「人それぞれ」を許容するべきなのか、というマクロな視点で考えると、標準的な人間像、標準的な人生設計というのはもう少し精緻に考えなきゃならないだろう、ということは以前から書いて来ました。

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社会史的な観点で見ると、80年代はポストモダン、価値相対主義、「多様な価値観」「生き方は人それぞれ」というのがもてはやされていて、そうした風潮の旗手は浅田彰や中沢新一、田中康夫といったリベラル系知識人や朝日新聞だったんだけど、主に保守勢力からは家父長制度的な言説に依拠しながら、そういった風潮を批判する意見が散見されました。
ところが、2000年代になり、新自由主義が台頭してくると、保守派はあっという間にそちらに乗っかってしまって、「弱者」の生き方も「人それぞれである」と切って捨てることで原理的資本主義を推進する方向に舵を切ってしまった。
竹中平蔵氏 の「若者には貧しくなる自由がある。貧しさをエンジョイしたらいい」と言う発言はなかなかの衝撃でした。

80年代の「人それぞれ」は日本社会の豊かさを前提としたものでしたが、2000年代以降の「人それぞれ」は自己責任を前提としたものだった。
自己責任ってミクロのレベルではまさしくそういう意識で動いて構わないと思うし、おそらくそのように思い込んで生きている人が多数でしょう。
「私は私が決めたからこのような人生を送っているんだ」と。
でも、マクロのレベルで見ると、人の人生なんて、どれも似たようなものです。
そこに個性なんて主張できるものは微塵もない。
社会という器があって、その中で選択できる「人それぞれ」でしかないわけです。
中国人が選択できる「人それぞれ」と日本人が選択できる「人それぞれ」は違います。
それは中国社会と日本社会が違うから、当然、その中で選択できる人生も違うということです。

で、日本社会を円滑に持続させていくためには現状の自己責任を前提にした「人それぞれ」「多様な価値観」ではまずいです。
ミクロのレベルでは自己責任で選びとったそれぞれの人生だろうけど、結果的には若者の多くが低賃金で長時間労働をする羽目になり、家庭を築けず、少子化が進行する、というサイクルに陥っている。
それも自己責任でしょうよ。
で、その自己責任の集積で国が成り立つんでしょうかね。

別に標準から外れてしまうマイノリティの人生や価値観を否定しようということはないんです。
でも、マイノリティな人生や価値観を無制限に肯定していては社会が不安定になります。

先日、女性手帳の頒布というニュースで「国に価値観を押し付けられたくない」という声が多数あがりましたが、「自己責任」などという欺瞞に満ちた価値観を押し付けて明日の保証がない「自由」という幻想を抱かせるよりよっぽどマシです。

モデルは必要なんです。
社会を構成する人間のモデルは。
そのモデルが一日12時間以上も働いていていいわけないんですよ。


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