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封印されし天皇の政治権力が解き放たれる時・・・!

[ 2013/11/04 ]
前回記事とはやや異なる視点からの記事です。

天皇の政治権力はいわば封印されているもので、立憲主義がどうこう、法解釈がどうこうといろいろ建前をとりつくろってそれを見えにくくしているだけで、潜在的な権力は絶大なものがあります。
封印は封印であって、その力が消滅したわけではない。

戦後、インターネットが普及する以前は、公教育の現場では天皇崇敬を推奨するような記述は教科書のどこにも載っていませんでした。
だから多くの人は天皇の存在の「凄み」みたいなものをそれほど意識することなく成長していったのだけれども、いざネットが普及して政治思想史の勉強を特にすることのない人たちが政治について語り始めると、その多くが右翼・保守的な発言を繰り返し、その拠り所として天皇の存在を語り始めるようになりました。
右翼・保守専用のSNSなんてものもあって、数万人の会員を抱えていたりもするし、ネトウヨの大量発生は言うにおよばずです。
よくも悪くも、20年前に比べれば、政治言論の場においては天皇の存在感というのは増していると言っていい。
人間の生来的な傾向として、優れた制度によって統治されるよりも、優れた人間によって統治されたい、と願う心も抑えがたく存在するということなのでしょう。

ただ、以前、海兄さんがこのような記事を書いていたのですが、これはこれで腑に落ちるところではあります。

海兄 : 在特会・ネット右翼と従来の右翼の違いはナショナリストとロイヤリストの違い

たしかにネトウヨに天皇への忠誠心があるかというと疑問ですが、ただ、そうであるにせよ、現在のこの「意識せざる共闘関係」が現象として拡大し続ける限り、そこに忠誠心があろうとなかろうと、天皇の存在感は増していかざるをえないでしょう。
主に韓国への対抗心からネトウヨは大量発生したのだけれども、ネトウヨから真正保守(天皇主義者)へとクラスチェンジした人もけっこういるでしょうしね。
制度による安寧が長く続いたとしても、人間の「生の声」がある程度高まってくると、それまで抑圧されていた「王権による人治」という可能性が浮上してくることもあるということなのかな、と。
もちろん、その浮上の過程で、今さら現実政治の場において天皇親政を、などという夢想を理論化出来る人間が現れるとは到底思えないのだけれども、それでも「社会のバックアップを担保する存在」としての天皇、という存在感は増していくことになるのではないでしょうか。



憲法という概念はその発生当初は民衆を保護するため、というよりは君主の力を削ぐため、という意味合いが強いものでした。マグナ・カルタ(Wikipedia)
貴族と王の関係性において、王の暴走を掣肘する必要から生じたもので、そこに民衆の権利を保護する、という目的は希薄だった。
時代を経て、「人権」という概念と融合していくことで憲法は今ある形に収まったのだけれども、「社会」(世界ではなく)には「王権」が先にあったのであって、「人権」が先にあったというわけではない、ということが重要です。

我々はそれなりに高度な理論操作によって成立したこの民主主義社会の中で生きることを是とする価値観の中で生きてきたし、恐らく理屈の上ではそれは必然的なことなのでしょう。
でも生来的な欲求としては制度云々はどうでもいいから優れた王、指導者によって統治されたい、という願望をも持っている。

理屈をこねてこねて今ある制度を作ってきたのだけれども、制度だっていつまでも不変のままではいられない。
制度に危機が訪れた(と思う人があらわれた)時、生身の人間である天皇に社会のバックアップをしてもらおう、と考えるのはわりと当然のことなのだろうと思います。

でも、今上天皇はあくまでも立憲体制下の君主であることに極めて自覚的な人なので、今回の山本太郎氏のような軽挙妄動に対して立憲君主の枠を踏み出して、自らの意思を政治に介入させようとすることはないでしょう。
この天皇の態度は立憲君主としては正しいし、国家の「機関」としてケチのつけようがない「あり方」です。

ただ、そうは言っても人間が完全でないのと同じように、制度も完全ではない。
天皇が生物学的に人間である以上、制度の一機関でしかない、という状態が許されない場合もあります。

昭和天皇は立憲君主の枠を踏み出したことが何度かありますが、中でも特筆すべきは二・二六事件の時と終戦の聖断の2つです。
二・二六事件の時は決起した青年将校らを「逆賊」であると断じ、自ら鎮圧を指揮しようとしました。
国務大臣の輔弼を受けることなく、自らの意思で、自らの立場を鮮明にした。
この時、陸軍上層部は決起将校らに同情的な立場であったことから、天皇の素早い態度表明がなければ、陸軍全体の反乱に拡大し、混乱の長期化も考えられました。
第二次大戦の敗北を受け入れる最終的な決断をしたのも結局のところ、昭和天皇です。
時の総理大臣鈴木貫太郎にもその意志はあったけれども、閣内不一致で、鈴木自身の判断だけで降伏勧告を受諾することはできなかった。
戦前の天皇制は絶対君主制と誤解されがちですが、明治憲法下でさえ、天皇とてその憲法の規定を越えて権力を行使することは本来ありえないことでした。

そこに「生身の人間」が王なり皇帝なり天皇なり、という立場であり続ける限り、憲法による「封印」はどこかで必ず破れるし、また破れなければさらなる災禍を招く、ということもありえるわけです。

そういう意味で、天皇という立場を離れて一人の人間として裕仁氏を見た時、自身が軟禁されようと、立憲君主としての立場を離れようと、暗殺されようと、どんなことがあろうと、その可能性があったのであれば、「開戦」に反対すべきではなかったか?という人間としての責任論が成立しうる余地があります。
「昭和天皇の戦争責任」とは究極的にはそこに収斂します。

ヨーロッパの小国、リヒテンシュタイン公国はヨーロッパ最後の絶対君主国家、と称される程に君主大権の強力な国ですが、立憲国家です。
1921年に憲法を制定し、議会も開設されていましたが、ナチスの猛威がヨーロッパに吹き荒れた際、リヒテンシュタインの政治情勢もナチスよりになりました。
これを憂慮した時のリヒテンシュタイン侯フランツ・ヨーゼフ二世は君主大権を行使し、選挙を無期限延期し、議会がナチス党員によって占められる事態を回避しています。
これは民主主義の否定であり、立憲君主の立場を大きく逸脱した行為ですが、これによってリヒテンシュタインは敗戦国になることを免れ、戦勝国として終戦を迎えました。

民主主義への背信行為であろうと、憲法違反だろうと、それを守って心中してしまったら元も子もありません。

逆に、田中芳樹の傑作SF『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリーはヴァーミリオン会戦でまさしく民主主義と心中するような行為を行ったわけだけど、作中では最後まで賛否両論な描写がされていましたね。


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あるいは、歴史上、もっとも多くの人間を直接殺した人間はエノラ・ゲイの爆撃手であるトーマス・フィヤビーです。
ほとんどの日本人は彼の名前を知らないだろうし、wikipediaにも彼の項目は存在しません。(英語版はあるのにね)
これは我々の多くがトーマス・フィヤビーを単なる爆撃手であり、職務を遂行しただけの人間であり、特に注視すべき決断を担った人間ではない、とみなしている証左であると思われますが、でも、もし彼が広島に原爆を落とさなかったら、数十万人の日本人は死なずにすみました。
彼が落とさなくても別の誰かがやれば同じことですが、その別の誰かも落とさなければ…、という不作為の連鎖があれば、広島に原爆が落ちることはなかった。
これは可能性の問題です。

我々は多くの場合、「立場」や「立ち位置」「職業」「身分」「資格」エトセトラで人間を判断してしまいがちなのだけれども、人間はどんなことでもやりかねない可能性を担保し続ける存在です。
それは良い意味でも悪い意味でも。
そういった制度によって塗り固められた封印がむき出しの人間性によって破られることで、社会が救済されることもあれば、崩壊することもあるし、封印されたまま、平穏を維持し続けることもあれば、崩壊することもありえる。

そうした可能性を、天皇という存在があり続ける限り、我々は担保し続けているわけで、今回の山本太郎氏の直訴もまた、国会議員という「封印」をたやすく乗り越えて、むき出しの人間性でもって(「立憲」君主ではなく)人間である明仁氏に向きあおうとした一件という見方もできるでしょう。
まあ、山本太郎氏にどこまでその自覚があったかは知りませんが。

社会のバックアップ機能という意味では、私は天皇制を今のところ支持している人間ですが、それでもそうした巨大な責任を一人の人間の上に担保し続けるというのも酷であるなあと思ったりします。
まあ、昭和天皇の「開戦責任」を問うような声ってそれほど大きくないし、日本じゃ社会の上層部の人間が責任を問われるようなことってあまりないですから、この問題が表面化する機会もそれほどないのだけれども、ね。

ただ、制度を支えているのは人間であって、その人間を無視した制度論をぶっても仕方ないはずなのだけれども、上記で挙げてきた「例外状態」をも常に見据えた議論というのは日本では忌避されているように思います。
そういう意味で、今回の山本太郎氏の一件はそれを多少なりとも日本人に意識させた貴重な事例と言えるでしょう。

関連記事:天皇抜きの幸せを成立させる、ということ
関連記事:山本太郎の楽しみ方&「天皇の政治利用」という問題設定のバカバカしさ


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