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日本人の「愛」

[ 2013/11/12 ]
なんとなく。

愛(あい)という言葉は中国語です。
そのことに気づいたきっかけは呉智英氏の著書『バカにつける薬』所収の「愛の悲しみ」という章を読んでからですが、それがずっとひっかかっていて、いろいろと思索したことを書いてみようかな、と。

以下、ところどころあやふやな知識と憶測と仮説を交えた妄言。


「あい」って音読みですよね。音読みって中国でそのまま発音されていた言葉です。
中国語で「あなたを愛しています」は「我 爱 你(ウォーアイニー)」って言います。
訓読みは元々日本にあった言葉ですが、それが「愛」に当てられたものを見てみると、「愛しい(いとしい)」は、形容詞としてしか使われない読みです。
愛しい(かなしい)、愛しむ(おしむ)、愛弟子(まなでし)などはちょっと特殊な読み。
「愛でる(めでる)」は訓読みで動詞として使用されていますが、動詞化した「愛する(あいする)」とはやはりニュアンスが違いますし、そもそも名詞として使用できない。
一方、「恋(こい)」は訓読みだから元々日本にあった言葉です。
「愛」が輸入される前は「こい」で、主として男女の「好き同士の関係性」を表現していたのでしょうかね。
でも、「愛(あい)」を知ってしまった我々の先祖は「愛」という言葉を日本に根づかせてしまった…。

明治以前だと、その根付いてしまった中国語の「愛」という言葉は男女の愛を表す以外の意味で使われなかったと言われています。
キリスト教は「愛の宗教」とよく称されますが、戦国時代にキリスト教が日本に伝来した際、「愛」という言葉はそういう情欲的なものとして捉えられていたので、宣教師達は布教の際、彼らの神=デウスのありがたさを説く上で「愛」という言葉を使いませんでした。
慈悲という言葉も仏教用語なので使えず「御大切」という言葉でデウスのありがたさを説いて回ったそうです。
ここで一旦は毛唐共の「愛」は我が国の「愛」(といっても中国語由来ですが)の前に敗れているわけです。

ですが、明治になると西欧文明の輸入によって遂に我が国の愛の概念が変わってしまいました。
明治以降、「愛」は基本的には「LOVE」の訳語で通ってますけど、「LOVE」は多義的な言葉で、その多義性がそのまま「愛」に移植されてしまったのは近代に入ってからです。
我々が現在、「愛」と捉えているものはキリスト教の影響下にあるものですが、その教典である新約聖書は元々ギリシャ語で書かれたもので、ギリシャ語では愛が四種類あってそれぞれに別の名前があります。

アガペー  神への愛 博愛
ストルゲー 家族愛
フィーリア 隣人愛 友愛
エロース  性愛 自己愛も含む

新約聖書にはエロースという単語は一切使われていなかったのだけれども、英語じゃ全部LOVEですからね。
情欲も友愛も家族愛も博愛も神への愛もすべて「愛」である、となってしまった。

ちょっと整理すると、

日本にはまず概念としての「愛」が存在しなかった。
愛に相当する行為、様態はあったであろうけれども、それを中国からの外来語である「愛」に一元化してしまった。
その一元化された「愛」はギリシャ語のエロースに相当するものだった。
英語圏の人間がキリスト教を吸収する際、四種類の愛をすべてLOVEに一元化した(ラテン語化する時点かも)。
文明開化でやってきた「LOVE」に含まれる多義性に影響を受ける形で、日本語化していた元は中国語の「愛」もまた多義化した。

という流れかな。
「愛は美しいもの」、という考え方はキリスト教のフィーリアやアガペーやストルゲーの要素が混入したことで化学変化を起こした結果です。
東アジアの哲学の大元である仏教では「愛」は本来、貪欲、煩悩であり、克服しなければならないものだった。
つまるところは我々が「愛」に奇妙な幻想を抱いてしまうのは、アガペーやフィーリア、ストルゲーを「LOVE」としてしか吸収できなかった英語圏(古代ローマ人か?)の連中のボキャブラリーの貧困さと、その貧困な言語を無批判に取り入れてしまった明治の先人たちに起因するのではなかろうか、と。
「愛」に対する幻想の前に刀折れ矢尽きて逝った多くの戦士たちの亡骸を見るに、また亡骸と化しつつある我が身を省みるに、先人たちの所業を恨まずにいられないところです。


ところで、この「愛」を巡る議論っておそらく現代社会ではありとあらゆる「概念」の中でもっとも様々な人によって議論される話題だと思います。
だから、またその意味が変遷する、ということもあるんじゃないかなあと思うんですよね。
我々が大前提として日々語る「愛」はしょせん、中国とキリスト教からの借り物でしかない。
いつか日本人本来の「何かとの関係をさす言葉」を概念として構築する日が来たとしたら、その時、「それ」はどのような形になっているのかな、ということをたまに夢想しています。

関連記事:人間を理解するということ


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