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我々はいつから人間になり、いつまで人間でいられるのか

[ 2013/12/02 ]
人間の発生と消滅については法律的には一応決まっていて、それを元に社会は運営されています。

人の始期 wikipedia
人の終期 wikipedia

ただ、これは結局のところ限定的なもので、国や地域によって採用する学説は違うし、時代によってもまた異なります。普遍的な定義など存在しません。
現代社会においては、権利主体、権利客体という法的な概念によって我々は人であることを定義、認知されているわけですが、もちろん法律などというものは一定の手続きさえ踏んでしまえばいくらでも変えることができるものです。
法律の背景にはその法律が適用される社会の価値観が強く作用しています。
そして、価値観が大きく変化すれば、法律も変更を余儀なくされるものです。
人の定義は、もっともレンジを広くとれば、受精卵の発生が人の始期になるだろうし、死後硬直が始まれば身体に損傷がなくても蘇生の可能性はないので、そこが終期となる、でいいような気もしますが、現実社会を運営していく上で、そこまで広いレンジで運用している例はないと思います。
カトリックなんかは受精卵の段階で生命体として尊重しなければならない、としていますが、それを法的な権利主体、権利客体として実際の法体系に組み込んでいる国はありますかね。
バチカン市国はそうなのかもしれないけど、そういうミニ国家じゃないところで。


たとえば近代以前、あるいは近代に入ってしばらくしてからも、間引きはそれほど珍しい行為でもありませんでした。人工妊娠中絶も行われていたし、生まれてきた子供をその場で産婆がすぐに縊り殺す、ということはごく普通のことだった。
理由は口減らしのためだったり、不具者だった場合の子育ての困難さからだったりです。
人権という概念が根付く以前は、そうした「合理的な理由」で子供は簡単に殺されていた。
子供はまだ「人間」と思われていなかったんでしょうね。
現在の日本でも中絶はわりと普通に行われていて、明るみに出ている数字だけで年間20万件以上、という話です。
出生数が100万人前後なんで、6人に1人は生まれる前に死んでいる、と考えることもできますね。

カトリックの信仰が篤い国なんかだと「胎児の人権」という概念はわりと一般的で、中絶に関しては多くの国が日本よりも寛容ではないようですが、それでも近代以前は間引きはごく普通に行われていました。
人類が慢性的な飢餓状態を脱したのはここ100年か200年くらいのことです。
生まれてくる子供を無制限に育てていれば、自分たちの食い扶持がなくなってしまうし、重度の障害を抱えて生まれた子供を育てる余裕がない家庭のほうが多かった。
中国では『史記』なんか読むと、飢饉の時には自分の子供と他人の子供を交換して食料にしていた、という記述があったりします。

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現代社会でも、子供の人権は大人の人権に比して、限定的に設定されています。
飲酒喫煙、各種資格取得、ポルノの閲覧、公営賭博への参加、結婚、政治参加などの権利は制限されている。
あるいは、黒人は長いこと人間としては扱われていなかったし、日本人も奴隷としてヨーロッパに輸出されていた時期があったりします。
女性の権利も長いこと抑圧され、今も抑圧されたままだ、と考えている人は多いでしょう。
「人権」という概念が広く流布されることで、人間たり得ることができた、という人は多いです。

ですが、その「人権」を例外なくすべての人間に適用することで、逆に社会の持続的な運営に支障をきたしはじめているのが、この少子高齢化した日本ではないか。
日本は「人権ディストピア」とでも呼ぶべき状況に陥っているのではないか。
膨らみ続ける年金支出、高齢者の医療費等で圧迫されていく国家財政を支えるために増税を重ねなくてはならなくなってしまった昨今、ネットで見かける「老害」憎悪、「高齢者は死刑」発言などを見るとそのように解釈してもよいのではないか、と考えられる局面も出てきました。


医学の進歩は人の寿命を大きく伸ばしました。
病気や怪我からの身体機能の回復技術が大幅に向上したのはもちろん、人工臓器で生存できるようになった人は多いし、脳死状態で生命活動を維持することも可能になった。
戦後すぐくらいの時期の日本人の平均寿命は60歳そこそこでした。
もちろん長生きした人はいくらでもいて、100歳以上の長命の記録もちらほらあったりしますが、種全体でならしてみれば、60そこそこまで生きられれば御の字だった。
「人間五十年」は有名ですね。
例外はいくらでもあったとしても、社会全体としてならしてしまえば、社会システムは50年か60年位で新陳代謝(世代交代、そして経済的に重要なのが資産移転)が行われる、という想定で長いこと運営されていた。
ですが、現代社会はだいたい80年で新陳代謝する、というサイクルで運営しなければならなくなっている。
しかも、80歳で急激にバタバタ死んでいく、ということはなくて、90歳以上の年寄りもそれほど珍しい存在ではなくなっている。
「長老」とか「知恵袋」などという存在も老人がそれだけ貴重たり得たから尊重されたのであって、年寄りがこれだけ増えてくると、単なる負担でしかない、と感じる人が増えるのも必然的な流れでしょう。
身体機能が著しく低下しても、社会の援助があれば我々は生きていくことができるようになったのだけれども、それは逆に言えば社会から余裕がなくなってしまえば生きていくことができない、ということでもあります。
あるいは別の言い方をすれば、医療技術の進歩、革新によって、我々は「人間でいられる時間」を拡張したのだけれども、それは果たしてどこまで許容されるべきなのか、という考えに繋がっていきます。



以下は以前書いた記事『礼記』・『お召し』・『ソードアート・オンライン』から考える極楽浄土としてのネット空間からの引用。


四書五経の一つ『礼記』の「曲礼・上」編に以下の記述があります。

人生まれて十年を幼と曰う、学ぶ。二十を弱と曰う、冠す。 三十を壮と曰う、室有り。四十を強と曰う、仕う。五十を艾と曰う、官政に服す。六十を耆と曰う、指使す。七十を老と曰う、伝う。八十九十を耄と曰う。七年を悼と曰う。悼と耄とは罪有りと雖も、刑を加えず。百年を期と曰う、頤う。

これは「弱冠」という言葉の出典として知られる一節ですが、士大夫の人生の節目節目において、どのような状態であればいいのか、という目安として捉えられてきました。
10才で学び、20才で元服し、30才で嫁を迎え、40才で仕官し、50才で重要な役職につき…ということなんだけど、『礼記』が成立したのは諸説いろいろあるけど2000年近く前です。
その時代の人々で100才まで生きられた人がどれくらいいたのか、また40で仕官ってちょっとおかしくないか、という疑問もあったりするんですが、「八十九十を耄と曰う。七年を悼と曰う。悼と耄とは罪有りと雖も、刑を加えず」という一節が以前から気になっていました。
7才と80才以上には罪があっても罰しない、という考えです。

日本でもこの影響からか、現存する最古の法令集である養老律令に10才以下と80才以上(障碍者、妊婦も)には死刑を適用しない、という条文がありました。

○39 禁囚条
囚禁〔しゅきん〕(=獄囚の収監)について、死罪は枷【木丑】〔かちゅう〕(=首かせ・足かせ)。婦女及び流罪以下は、【木丑】〔ちゅう〕(=足かせ)を除けること。杖罪は散禁(=特に刑具を着けず収容して出入の自由を禁じる)。年齢80歳(以上)、10歳(以下)、及び、癈疾〔はいしち〕(=身障者等)、懐孕〔えよう〕(=妊婦)、侏儒の類は、死罪を犯したとしても、また散禁とする。


官制大観 律令官制下の官職に関わるリファレンス Ver.0.8より引用

責任能力、という近代的な考えではなくて、古代の人々は子どもや老人、妊婦、障碍者を半ば「他界の住人」として捉えていたのではないか、という説があったりします。

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姥捨て山や『楢山節考』に代表されるような棄老伝説というのは明確な文献が残っていなくて、実際に老人を山に捨てるような文化があったとは考えにくいようです。
ただ、引用にあるように、古代社会では『礼記』や養老律令などに見られるように、子どもだけでなく、老人も「法の前に平等」という概念の埒外においていた。

「人権」という概念は人間を一律平等に扱うもので、その概念を強烈に推し進めることで近代社会は発展を遂げてきたのだけれども、この少子高齢化した社会にあってはそれが社会を圧迫している面もあるということも考えなくてはならないのではないか。
「高齢者の人権」をどの程度まで保証するか、身体機能の低下をどこまで社会が肩代わりするか、という問題は、社会が余裕を失っていけばいくほど、より生々しく「命か金か」という意識にすり替わっていくことになります。


一方で、人権概念と対立しない形として、ヨーロッパのいくつかの国ではQOLや自己決定権の観点から、尊厳死、安楽死を導入していたり、終末期医療で胃ろうを適用しなかったりしているケースも聞きます。
これは医療の無自覚、「野放図」な技術革新に対して、人間の思想が「死」を自律的(個人ではなく社会の)にコントロールしようとしている、という風にも考えられます。

ですが、日本社会は人間がどういう存在であるか、「死」とはどういうものであるべきか、という議論をほとんどしていないまま、ただ医療技術の発達を見送ってきただけではないのか。
こういう命題に対して、社会的なコンセンサスを形成する努力を日本人はしてこなかった。
それは少子化を放置してきた問題とも通底するものだと思います。

人間の境界、「死」のありよう、という問題に対して、医療関係者や身内にそうした人を持たない日本人がまともに考える場って下手したらマンガの中だけじゃないでしょうかね。
『ブラックジャック』、『ブラックジャックによろしく』、『鋼の錬金術師』等では人間を人間たらしめることの困難さを様々な角度から考えさせてくれますが、そういう問題が外交安全保障や財政、景気、教育、政治制度等と同等レベルで現実の議論にあがるケースってそれほどないように思います。

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もちろん、テレビのドキュメンタリーなんかではよく医療現場の声ってあがってくるんだけど、それを国民的な合意形成を図る方向で政治的なイシューに持って行こうとしている動きがそれほど活発でない、ということを指摘しているわけです。
何が人間か、何が「死」か、という話を現実政治の場に落としこむ経路が見えてこないがために、ネットで高齢者に死ね、という声が上がったりするのかな、と。
この論考はそうした不満の声をどうやって政策的なものに昇華したものだろうか、というところから書いたものです。
死ね、という声はあまりにも短絡的なものであるし、個人的には高齢者はとっとと死んでほしいなどとはまったく考えていませんが、それでも「理想的な死」「苦痛でない老後」のモデルを構築することは倫理的にも社会的にも経済的にも重要な問題ではないかな、と。

「人間の概念」も「死の概念」も価値観の変化によっては変わりうることがある。
社会を持続可能なものにするためには、幸福な人生を歩むためには、「人間の概念」や「死の概念」を変更する必要があるかもしれない、ということですね。

社会を持続的に運営していくためには、人間が人間らしくあるためには、人間とはどうあるべきなのか。
社会システム、法律、経済、哲学、倫理学、歴史、思想、医学といった幅広いフィールドを視野に入れた思考がある程度広範に共有され、価値観化していかないことには、現在の若者とていずれは望まざる老後を迎えなければならないかもしれませんよ、と。
現役世代が今のうちにそうした「覚悟」を持って老後を定めておけば、後の世代を楽にしてあげることもできるんじゃないでしょうかね。

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