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『コーラン』(井筒俊彦 訳)

[ 2010/11/21 ]
世界中で13億人とも言われる信者を抱えるイスラム教の聖典。
その著者や編者、形式についていろいろ言われているけれども、要するに、モハメッドが神がかり状態になったときに口にした言葉を、後代になってまとめた言行録である。
だからこの書の言葉はすべて神自身の言葉とされる。

内容はセム系一神教(アブラハムの宗教とも言われるが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の総称)の外側にいる人間にはまったく縁のない行動マニュアル(アッラー=ヤハウェの教えをどのように守るか)と、旧約聖書の曲解、誤解を含んだ注釈(モハメッド自身は文盲で、聖書の内容についても伝聞でしか知らなかった)で成り立っている。

そんなものを読んでも、内容自体でどうこう言う事は何もないのだけれども、ただ、イスラム世界についてほとんど知らなかったので、その理解の中心になるだろう、と思って読んでみた。
結果、他の周辺情報とあわせてイスラム(アラビア語で絶対帰依という意味)世界について、自分なりの流れは掴んだので読んでよかったと思う。

本来ならばアラビア語で記述された『コーラン』のみが『コーラン』であり、他の言語で記述されたものは『コーラン』の注釈でしかない、というのがイスラム教の見解。
神の言葉そのものである『コーラン』は、神の「被造物」にすぎない人間よりも重要な存在として扱われており、近年でもパキスタンで『コーラン』を焼いてしまった青年が処刑されてしまったりと、イスラム教の外側の人間からすれば、理解出来ないことが『コーラン』を巡る人々の間で共通認識になっている。
それは女性の社会的地位の低さだったり、偶像崇拝の忌避による芸術の進歩の妨げだったり、「ヨーロッパ近代」への適応力の低さだったり、と現代の国際社会における彼らの異端ぶりに現れている。

ところが、近代以前、つまり産業革命の拡大と人権思想の流布以前の世界は、イスラム世界こそが最先端だった。
アルコールとか、アルミニウム、アルカリの「アル」はアラビア語の定冠詞(英語のthe と同じ)で、そのままヨーロッパに定着した言葉だったりする。
アルハンブラ宮殿、アルカイーダ、アルジャジーラと同じ用法。
他にもコーヒーとか、レモンとか、ラケットとか、マッサージとか、キャンディとか、シロップとか、意外な言葉がアラビア語由来であり、当時のキリスト教社会に対する優越性が伺える。
キリスト教社会にしたところで中世はペストに苦しんだり、魔女狩りや異端審問なんて馬鹿げたことをやっていたので、そりゃどっちもどっちだったのだろう。
ただ、キリスト教社会は内部からそれを変革するだけの言説が現れたのに対して、イスラム教は、聖典である『コーラン』を神の言葉そのものであるとし、思考放棄に近い状態のため、思想の柔軟性を欠いてしまって、近代への脱皮を図ることが出来なかった。

というわけで、『コーラン』読んでおけばイスラム社会に対する見方はある程度は好意的な方向に是正されるのかと思っていたのだけれども、まったくそんなことはなく、むしろ悪い方向に傾斜したように思う。
おそらく、現代のイスラム教徒個々人の人柄や個々のエピソードに接することでしか、イスラム教そのものに対する見方は変われないのだろうな。
とにかく、神の言葉そのものであるがゆえに、『コーラン』に対しては言論の自由が許されない。
聖書を材にとったフィクションは無数に存在し、イエスを揶揄する言説だって無数に存在する。
そうした言説、フィクションを通して、私たちはキリスト教社会を多面的に捉えることができるのだけれど、イスラム教に関してはその自由が許されない。
とにかく腫れ物を扱うような細心の注意が払われるのだ。

他にイスラム教を調べていくうちに興味深かった現象として、

・『コーラン』の著述では「聖書」を完全無欠な存在として、『コーラン』自体よりもむしろ上位の存在として扱っているにも関わらず、モハメッドの聖書理解の足りなさから、『コーラン』との矛盾が多々生じてしまった。
結果、現在のイスラム諸国ではモハメッドの無謬性を確固たるものにするため聖書が発禁になっている。

・モハメッドには何人も妻がいたが、もっとも愛した妻はアーイシャという9歳の少女だった。

・イエス・キリストは元々はユダヤ人であり、ユダヤ教徒だったが、そこから神との契約を更新し、キリスト教を始めた。
マルチン・ルターは元々カトリックだったが、そこから宗教改革を起こし、プロテスタントの源流をつくった。
しかし、モハメッドは多神教徒達が住民の多数を占める地域に生まれたにも関わらず、突然、多民族の宗教を持ち出して、それを聖書の内容やヤハウェ=アラーがどういう存在かということも知らない人たちに対して触れて回って、一大勢力を築いてしまった。
その論理の一貫性の無さから、私は思想家としての彼を評価できないけれども、軍事指導者、政治家としての手腕には恐れ入るしかない。


こういう理解し難さを抱えた人たちが13億人いる、という事実が世界に与える影響はとてつもなく重い。
中国の存在もそうだけれども、果たして我々が彼らに歩み寄ることと、彼らが我々に歩み寄ることと、どちらがより人類全体にとっての利益になるのだろうか…。
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