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天皇抜きの幸せを成立させる、ということ

[ 2012/03/14 ]
あまり自分の中でも固まっていないことを文字にするのはいかがなものか、というのはあるんですが、人に読まれることを前提にした文章を書くことで多少は頭の整理もできるかな、という意味合いで。
どうせ最後まで読まれないでしょうし、理解しにくい文章になるんでしょうが。


現行のまま皇室制度に何の手も加えられないといずれは皇室制度は破綻してしまうのにも関わらず、女系を容認するか否か、という問題ばかり取りざたされて、旧宮家や側室制度の復活を含めた議論があまりなされないのはある種のプロパガンダがうまくいっているからなんですかね。

私は基本的には男系維持派で、旧宮家や側室制度を復活させてでもその伝統を守ったほうが良いと思うんですが、マスコミではあまりそちらのほうには議論がいきません。
ですが、女系天皇などという新奇なものが誕生するくらいなら、皇室制度は滅んでしまっても一向にかまわないんじゃないか、ということも考えたりしています。
愛国者であることと天皇家を尊崇することはイコールであることのように語られているわけだけれども、日本国民の多くが幸せであるのならば、別に天皇家なんぞなくても一向にかまわないんじゃないかな、と。
天皇機関説じゃないけど、天皇家があったほうが日本人は幸せだ、統治に便利だ、と思う人が多いから、天皇制は維持され続けていたわけですが、近代的な一夫一婦制の維持と皇室の拡大という選択肢の拒否を続けることが当然のことだ、という考え方が支配的であるならば、女系天皇などという新しい「制度」をつくるよりも、いっそのこと滅んだほうが美しくはなかろうか、と。

古代から延々と続いてきた天皇家があったからこそ、日本の同一性は保たれているのだ、という議論はたしかにあるんだけど、その一方で、究極的な責任主体を近代国家において世襲の人間に押し付けていいのか、という議論はブログ界隈ではあまり活発ではないよなあ、という印象があります。
こういうのは学者の仕事なのかな。


第二次大戦は大失敗だったわけですが、じゃあその戦争責任は誰にあるのか、という議論はいまだに決着がついていない問題です。
政治的には一応「戦犯」というレッテルを貼られた人達に背負わされた形なんでしょうけど、米軍の当初の思惑としては昭和天皇に退位を迫る形で背負わせようとしていた。
「昭和天皇の戦争責任」という問題はwikipediaに単独項目がつくられるくらい、何度も論じられてきた問題なんだけど、責任がまったくない、とは言えないと思います。
で、昭和天皇個人がどうだったか、という問題とは別に、立場として責任を追求されうる人物が、あるいは責任を云々される人物が、責任があったかなかったかわからない、なんてことでよいのかというのがひっかかるわけです。
明治憲法では天皇に統帥権があったわけですからね。

日本という体制の上層部はただでさえ無責任体質で、いろんな現象の責任がどこにあるのかはっきりしない国です。
原発事故、震災復興の遅れ、年金の不備、赤字体質の国家財政、沖縄米軍基地の移転問題、長期不況…etcの責任が誰にあるのかはっきりしないです。
これらの事態を招いて社会的、刑事的に罰せられた人間ていないですよね。


現行憲法下でこれらの理不尽の責任を今上天皇に押し付ける、などという人はいないでしょうが、現行の憲法下ですら、仮に天皇が「ご乱心遊ばされた」場合、その意向を完全に無視することができるのか、という問題もあったりします。
総理大臣の任命は天皇の国事行為だし、国民の多くは総理大臣より格上の存在として天皇を認識していると思います。
あるいはクーデター勢力が天皇を擁して暴力的な手段で反乱を企図したらどうなるか。
明治維新はそのようにして起こったし、2.26事件はそれを企図した事件でした。
まあ、明治維新は成立してよかったということになっているし、2.26事件も成功していたらそれはそれで面白かったとは思うんだけど、権力奪取の手段が民主的な手続きに依拠しない方法でも容易(相対的に)に達成しうる、というのも問題じゃないかな、と思ったり。
別に民主主義を盲信しているわけでもないですけどね。

つまり、自分たちの責任を押し付けられる可能性を秘めた「制度」を日本人はまだ一応、担保しているのはそれはそれで問題だよな、と。

別に私はそれほど責任感の強い人間というわけでもないけど、それにしたって日本の組織を率いる人達の無責任さ、責任のとらなさ加減て異常じゃないか、と思えるフシが多々あります。
これが本当に武士の国だろうか、と思うわけです。
その淵源をたどっていくと、責任主体としての可能性を曖昧に担保し続ける天皇制というシステムに帰結するのではないかと。
無論、一個の人間として、今上天皇は世界的にも稀な偉人であると思うし、儒教的な意味では理想的な君主であろうとは思うんですけどね。

ただ、責任主体としての個人、ということを考えるとき、天皇制のシステムはそれと相反したものであるし、責任主体が責任をとらない社会というのは理不尽を許容することに繋がるのではないか、という危惧もあるので、天皇制自体が、500年後くらいにたどり着いているかも知れない理想社会にとって邪魔な存在なのかもね、ということも考えたりして、思考の混迷が増していくわけです。
いずれ消え行くのが定めなら、いっそのこと…、いやいや待てよ、みたいな。
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