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都議会セクハラ野次の雑感~問題が問題として認知されるには~

[ 2014/06/25 ]
都議会でのセクハラ野次がけっこうな規模の炎上になりましたね。
私も憤りを感じた口ではあるんだけど、予想外の広がりに違和感を禁じえませんでした。
問題は問題だけどここまで広がるものなの?という。
怪我をした時に救急車を呼ぶか、自分で病院に行くか、絆創膏貼っとくか、みたいな。
今回の件だったらまあ、絆創膏程度だろう、と思っていたら救急車呼んでいた、と。
時代性、でしょうかねえ。

世の中には理不尽、憤りのネタっていくらでも転がっているのですが、今回のように、みんなの憤りがこうして結実して一定の成果をあげる例と、結実するまでもなく雲散霧消したり、小さな抗議にしかならかったりする例の違いってなんだろう、というのを少し考えてしまいました。

こういう失言でしか政治家の首をとることができないってそれはそれでどうなんだろう、とか思うわけですよ。
別に誰かが死んだわけでもないし、何かを盗んだわけでもないし、職権を利用して不正を働いたわけでもないし、誰かの人生を滅茶苦茶にしたわけでもないし。
暴言やセクハラってそりゃあっちゃならないことなんだけど、それでも言葉に過ぎないわけで、誠意をもって謝罪されたらそれでおしまいっちゃあおしまいですし、それでおしまいにしなければただのリンチです。
セクハラ野次を受けた側も、人間社会のルールとして誠意のある謝罪があれば、それで腹わたが煮えくり返っていても、受け入れなくてはならない。
ヤジそのものを規制・禁止する動きに持っていく、というのは有りかもしれませんが、鈴木議員の処分や進退にまで話を持っていくのはどうかな、と。
「早く結婚したほうがいいんじゃないか」で告訴とかってのもちょっと考えにくいですしね。

私自身の想像力の欠如という他無いのかもしれないけれども、人間の尊厳を傷つける「言葉」に対して、敏感な人が多いんだな、というのは改めて感じました。
これは性差の問題も絡んでくるとは思うけど、それとは別にしても。
人間の尊厳を傷つけ続けている「制度」や社会構造に関してはわりと鈍感な人たちが多いのにね。
そこら辺を是正すべく私は常日頃、制度論を考えてどうにかして形にならないかなあ、とあれこれ書いているので、今回の件はそういう意味で違和感を感じるとともに、みんなの憤りを形にする方法論や経路はどういうものか、ということを考えるよいサンプルになりました。

そりゃあ、マスコミも政治家の失言を見つけようと躍起になるわけだ、と。
言葉の問題って大事だし、失言したら謝罪があって当然だけど、本丸は個々の言葉じゃなくて、制度や社会構造だと思うので、そちらの方への憤りでもみんなの憤りが形になる道筋を見つけたいものですね。


関連記事:失言を報じても政策や実務能力の是非を報じないマスコミ

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[ 2014/06/25 ] 時事ネタ | TB(0) | CM(-)

リベラルでも保守でもなく持続主義ということで

[ 2014/06/05 ]
共産主義者でも社会主義者でも保守主義者でも資本主義者でもありませんよ、ということで。
ほとんどの人は無党派だと思うのですよ。
政治について語っている人のほうが少ないし、政治についてよく語る人でも特定の政党を熱心に支持している人ってどれくらいいるだろう、と。
政党への支持なんてしょせんは相対的なものでしかなくて、支持政党なんて頻繁に変わるだろう、と。

ただ、私は政策論や社会システム論をネタとしてよく書いているので、頻繁に左翼だの右翼だのとレッテルを貼られる機会が多くてわりと辟易しています。
人間は他人を分類することで他人を理解した気になることができますからね。
でも、そういうレッテルを貼られたからといって、保守とかリベラルに帰属意識や仲間意識を抱いているわけでもないし、仲間として扱ってもらえたこともないので、不本意だなあ、と。
だからといってメタ発言とシニシズムに逃げているつもりもないわけですよ。
何かを言う時にはきちんと対案を示してきたつもりですしね。
じゃあ、お前は何なんだ、と言われると私は私ですよ、としか言いようがないのですが、それじゃあ不親切かな、と。
プライベートをだらだらとネット上に晒す気もありませんが、多少は私が何なのか理解しやすい補助線を出しておいたほうがいいのかな、と。

なので、とりあえず持続主義者と名乗ろう、と。
社会の持続的な安定を優先順位の最上位に位置づけた上で物事をいろいろ語っていますよ、というスタンスです。
社会も時代も文明も変遷するけど、人間のライフサイクルは普遍です。
この世に生まれ、教育を受け、社会の成員となり、日々の娯楽をその時々で楽しみ、伴侶を得、安らかな死に辿り着こうと欲することで世の中は回っていく。そのサイクルは万古普遍のものだから、それをより多くの人間にとって達成可能なものにすること。
資本主義だって社会主義だってイデオロギーが暴走すれば大変なことになるのは歴史が証明しています。
それらのイデオロギーに是々非々で対応しつつ、しかし決してそれらのイデオロギーを「思考の補助線」にすることなく考察し、ものを言っていこう、という立場。
こう書くと右か左どっちに近いか、というと保守かなあ。本来的な意味での保守に近いですね。まあ、現実の保守がアレなんで。

「第三の道」とかとどう違うのとか、思想的立場を鮮明にすること自体にどんな意味があるんだよって話もありますが、まあ、確認ということで。

関連記事:持続可能な資本主義という概念~お花畑とドーピングと鰻と~

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[ 2014/06/05 ] 雑記 | TB(0) | CM(-)

自己責任論の有効範囲

[ 2014/06/02 ]
人間の本質というのは突き詰めるとただの鏡なんで、究極的には責任なんかとれるわけがない。
時代、国籍、性別、容姿、身長、体質、才能、家庭環境、教育環境、運不運といった本人の意思ではどうにもならない要素にがんじがらめに縛られた状態から人生をスタートさせなければならないのに、それらをすっ飛ばして「自己責任」とか「自業自得」とかいう言葉で何かを言った気になるのはただの思考停止にすぎない。

ただ、それでも自己責任という言葉に何かしらの説得力みたいなものがあるのは、我々が自由で機会均等で豊かな先進国の人間だから、という「ファンタジー」がある程度は信じられていること、「ある状況」に陥っている人を救うのに最も有効な手立てはその人自身の自助努力である、というケースが多いからだろう。

Aさんがひどい状況に陥っていても、Aさん自身にまず助かりたいという意思がなければAさんを助けることは困難だ。
Aさんにとって最大の味方はAさん自身である場合がほとんどであろうし、Aさんにもっとも影響力を行使できるのもAさん自身である場合がほとんどであろう。
Aさんの足を持ち上げようと思ったら、Aさん以上にAさんの足を持ち上げるのが簡単な人はいない、という意味で(もちろん一般論として)。
だからAさんをどうにかしようと思ったのなら、Aさんだけに責任があるわけではないけれども、Aさんに対してAさん自身が強制力を行使できれば非常に有効な突破口となりうるから、我々はAさんに「しっかりしろ」「がんばれ」などと激励の言葉をかけ、あるいは責任を追求しようとする。
ある人を真人間にするのにもっとも効率的なのはその人自身が真人間になろうと努力すること。
もちろん、「人間の幅」というのはかなり広いもので、ちょっとしたきっかけで立ち直れる人もいれば、周囲の厚い支援がなければ立ち直れない人もいる。
どうすれば立ち直れるかその方法が見つからない人だっているだろう。
ただ、いずれにせよその核にある「その人自身」の意志を動かさなければ、その人を苦境から救うことは難しいわけだ。(難しい、というだけで必ずしも不可能ではない、というところが浮世のさらに難しいところ)


ネット時代になって、我々は世界に対して自分の見解を簡単に表明することができるようになった。
自分のブログで、2ちゃんねるで、SNSで、ニコニコ動画で、はてなブックマークで、多くのサイトのコメント欄で。
そしてそれらの他人のコメントに我々は少なからず影響を受け、時として自身を同期しようとしてしまう。
空気を読まずにいられないし、その空気の中でうまいことを言おうとか考える。

そういうコメントというのは多くの場合、トピックに対する感想である。
たとえば、就職できなくて貧困に喘いでいる人たちがいるとか、海や山で誰かが遭難したとか、合コンで酒飲まされてレイプされたとかいうトピックが立てられた時に寄せられるコメントで、自己責任系のものというのは、あまり意味が無い。
そのコメントに共感が集まり、価値観として普及したとして、それでいったい世の中が少しでもよくなる、ということがあるだろうか。
自己責任能力に優れた人々だけの世の中になる、などということがあるだろうか。
まずありえない。
そうやって「人間の幅」を狭くするようなコメントが蔓延し、そこに共感が集まったところで豊かな世の中になる、などということは考えられない。

事件に対するコメントなど、所詮は多くの人にとって娯楽である。
娯楽だからその程度のコメントになるのも、その程度のコメントでコミュニケーションをとれたつもりになるのもわかる。
あるいは、自分の身の回りで困った人がいたら、まずその人自身の「自己責任」を追求しようというのもわかる。
だが、世論として自己責任を問う声が大きくなったところで、一時的な優越感に浸ることが出来たとしても、それで世の中がよくなる、などということはありえないし、苦境に陥っている人間をクズ扱いしたところで、クズがいなくなるということもありえない。

だから、そのクズがどうすればクズにならずに済むか、という社会の仕組みやその現象の背景を考察するコメントや意見が多くなればいいのに、と思うのだが、それはおそらく不可能だろう。
でも、「自己責任」とか「自業自得」という言葉はコメントとしてはレベルが低くて何の解決にも繋がらないし、それが何の留保もなく無邪気に共有され、価値観化してもろくな世の中にはならないし、それはただの精神論に過ぎないよ、ということはもっと多くの人に認識されてほしいな、と思う。

もっと端的に言えば、自己責任論は現在の社会状況的に、ミクロのレベルではそれなりに有効でも、マクロのレベルでは社会を疲弊させていく一因にしかならない、という話。

関連記事:人間の正体は鏡


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[ 2014/06/02 ] 考察 | TB(0) | CM(-)
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